AKEによる創作ブログ。
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ここは管理人AKEによる創作小説ブログです。
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一晩中振った雨がやみ、穏やかに晴れた朝のことです。ひとりの若者が、通りを歩いていました。すると、向かい側から、恰幅の良い紳士が歩いてきました。紳士は身だしなみに余念が無いようで、しきりに帽子の角度を気にしていました。
「こんにちは」
若者は紳士に挨拶をしました。
「やあ、こんにちは」
紳士は、帽子を気にしながら、若者に挨拶を返しました。
「とても立派な帽子ですね」
若者が紳士の帽子を誉めると、紳士は満足そうに微笑みました。
「そうかね。これはとても大切な帽子なんだ」
紳士がそう誇らしげに言ったときです。とても強い風が吹いて、紳士の帽子をさらっていきました。
「大変だ、大変だ」
紳士は大慌てで帽子を追いかけて行きました。
若者は、帽子を追いかける紳士を追いかけました。
帽子は、風に乗ってどんどん遠くへ飛んで行きます。
「もうあんなに遠くへ行ってしまった。あきらめたらどうですか」
紳士に追いついた若者が言いました。しかし、紳士は首を横に振りました。
「あれは大切な帽子なんだ」
そうして再び帽子を追いかけ始めました。
風に乗った帽子は、一本の高い木に引っかかってしまいました。
若者は言いました。
「御覧なさい。帽子はあんなに高い木の上です。もうあきらめた方がいい」
しかし紳士は首を縦に振りません。
「あの帽子を取り戻すためなら、こんな木を登るくらい、何でもないさ」
そうして紳士は、その高い木に登り始めました。
紳士は何度も滑り落ちそうになりながら、帽子の引っかかった枝に近づいて行きました。
「ふう、もうすぐだぞ」
帽子はもう目の前です。紳士は帽子に手を伸ばしました。その時です。再び風が吹いて、帽子は飛んで行ってしまいました。
紳士は少しの間、呆然としていましたが、すぐに大慌てで木を降りました。そしてまた帽子を追いかけ始めました。
帽子はしばらく空中を舞い続けた後、夕べの雨のためにぬかるんだ地面に落ちました。
紳士は帽子に向かって走ります。
後を追いかけてきた若者が、紳士にたずねました。
「見てください。帽子は汚れてしまいました。それでもまだあの帽子が大切なのですか」
「もちろんだ。あんなにいい帽子は他にない」
そう言って紳士が帽子を拾い上げようとした時です。一際強い風が吹いて、帽子は飛んで行ってしまいました。
「何て事だ」
紳士はもう泣きそうです。
帽子はどこまでもどこまでも飛んで行きます。紳士は帽子を追いかけます。若者は帽子を追いかける紳士を追いかけます。帽子と紳士と若者の追いかけっこは、永遠に続くかのようでした。
「君は、何で私を追いかけてくるのかね」
紳士は走りながら若者にたずねました。
「何故あなたがそんなにあの帽子を大切に思うのか、わからないからです」
若者は、紳士を追いかけながら答えました。
紳士は若者をちらっと見て、言いました。
「君だって帽子をかぶっているじゃないか。君はその帽子が大切ではないのかね」
若者は少し考えて、答えました。
「大切だと思います。しかし、あなたほど大切に思っているかどうか、わかりません」
紳士は言いました。
「君は帽子を飛ばされていないからわからないのだ」
帽子と紳士と若者は、いつの間にか、海の側まで来ていました。海はとても荒れています。
「このままでは、帽子は海に落ちてしまいます。あんなに荒れた海に落ちたら、もう拾うことはできないでしょう」
若者は紳士に言いました。紳士は聞こえているのか、いないのか、黙って帽子を追いかけます。
「あ」
若者と紳士は同時に声を上げました。帽子が海に落ちてしまったのです。
「あ」
また声が上がりました。しかし、今度声を上げたのは、若者一人だけでした。紳士は帽子を追って、海に飛び込んでしまったのです。
若者は、帽子にしがみついた紳士が、激しい波に飲み込まれて行くのを目にしました。
若者は、しばらく海を眺めていました。それから、静かに歩き始めました。
その時です。強い風が吹いて、若者の帽子をさらっていきました。
「桜の樹の下には、死体が埋まっている、なんて書いたやつがいたが、どうだ、本当に埋まっているような気がしないか」
そう言って叔父は、桜の木を恍惚とした表情で見上げた。確かに、盛大に咲いたその桜は、死体の養分でも吸い上げているのではないかと思うほど凄みを帯びていた。
「こんな桜、よく見つけましたね」
静かな住宅地に囲まれた、ひっそりとした神社の境内に、その桜はあった。神社と言ってもほこらがあるだけの小さなもので、境内は空き地になっている。その空き地の真ん中に、盛大な桜。寂れた風景の中にあるせいか、際立って美しい。
「だてに歩き回っていないからな。新しい土地は全てがめずらしく見えて、ついこんな住宅地にまで入り込んでしまった。だが、おかげでこの桜にめぐり合えた」
叔父は高校で国語の教師をしている。今年の四月からこちらへ転勤してきたのだ。大学で国文学を学んでいる僕は、この叔父と気が合った。
「毎日見に来ているんだ、この桜を。学校から直行する毎日さ。いっそここの空き地にでも住んでしまおうか……なんてな。こいつももうすぐ散ってしまうだろう。満開のうちにお前に見せておきたくてね」
「自分が見たかっただけなんじゃないですか」
叔父の陶然とした表情を見ていると、どうもそんな気がしてくる。自分が桜を見に来るのに、僕をつき合わせただけなのではないだろうか。
はは、と笑った叔父は、相変わらずぼうっと桜を眺めている。どこか物憂げな、霞がかかったような眼差しで。桜に酔っているようだった。
「桜の美しさってのは、恐ろしいと思わないか」
「恐ろしい?」
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし……業平の歌だがね。全くその通りだと思うよ。桜は人間を支配する。花を咲かせるだけで人の心を浮き立たせ、散らすだけで嘆かせる。この花がなかったら、どんなに春は穏やかだろう」
叔父は、そっと桜の幹に触れた。
「だがこの桜という花がなければ、きっと春は味気ないものになってしまうのだろうな。人をここまで魅了してしまう桜……恐ろしいよ」
そう語った叔父の桜に触れる手、見上げるまなざしは、桜を崇拝してでもいるかのようだ。
四月もなかばを過ぎた、ある春の昼下がりのことだった。
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