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桜心中(中編)

「浩之叔父さん、無断欠勤したんですって」
 母にそう告げられたのは、叔父と会った二日後のことだった。
「理絵さんから電話がきたの。家にもいないし、どこへ行ったのかもわからないんですって。こんなこと初めてだから、何かあったんじゃないかって、心配していたわ」
 理絵さんとは叔父の奥さんだ。母とは元々仲が良かったが、こちらに引っ越して来てから頻繁に連絡を取り合っている。
「隆、あなた、何か心当たりはないの?」
「桜のせいだ」
……とは言わなかった。根拠のないことを言っても混乱させるだけだ。だが僕は、確信していた。理由はわからないが、そう思ったのだ。


 翌日、僕はあの桜のある神社に来ていた。どうしても気になって、授業を抜け出してきてしまったのだ。
桜の花びらは、雪のごとく舞い散り、美しい最期を迎えようとしていた。僕は、散り際の桜が一番好きだ。あんなに豪華に散ってゆく花を、僕は他に知らない。
 花びらと午後の日差しが降り注ぐ中に、叔父は立っていた。
「叔父さん」
 僕の声に、叔父は驚いたように振り返った。
「隆……どうして」
「叔父さんこそ、どうしてこんな所にいるんですか。学校に行かなくてもいいんですか。理絵おばさんが心配していましたよ」
 叔父は呆然とした様子で、とりあえず座らないか、と言った。
 空き地のはずれにあるベンチに僕たちは座った。
「いったい、何があったんですか」
 叔父の様子はいつもとは違っていた。この前会ったばかりだというのに、少しやつれて見えた。それでいて、目だけはらんらんと輝いていた。
「そうだな、お前になら話せるか……」
 少し沈黙したあと、叔父は語りだした。
 

「お前とここへ来た次の日もね、私はこの桜を見に来たんだ。言っただろう、毎日見に来ているって。学校からまっすぐここへ来たんだ。
 辺りは薄闇に包まれていたよ。街灯がやけに眩しく感じられた。その街灯の光が届くか届かないかの辺りに、ほの白い桜は立っていた。ふとね、あの桜が女のように見えたよ。知っているか? 植物と人間の体は対応しているという説があるんだ。芽は目、葉は歯、花は鼻、実は耳といった具合にね。耳っていうのは二つあるから「み」を二つ重ねて「みみ」というらしい。……桜が女に見えたっておかしくないと思わないか。
 もう花が散り始めていてね、花びらが、薄墨色の闇の中を、ちらりちらりとひらめいて。私はその様子を、ぼうっと眺めていたよ。するとね、何かがぽとり、と落ちてきたんだ。やけに色の白い何かが。桜の花びらっていうのは、こう、上気したような色をしているだろう。その色は薄暗くても何となく感じ取れるものだ。だがその何かはただ白かったんだ。私は地面に横たわった白いものに目を凝らした。
 指、だった。それも女の、たぶん小指だろう。雪片のような、今にもとけ出しそうな……
 この前死体が埋まっていそうだなんて言ったがね、まさか本当に死体でもあるのかと思って、桜の上の方を見上げたよ。だがあるのは満開の桜の花ばかりだった。
 警察に連絡したものかどうか迷ったよ。関わり合いになりたくなかったしね。しかし人体の一部が落ちているなんて普通じゃない。何か大きな事件かもしれない。やはり通報するべきか、なんて思っていると、なんと肝心の指がなくなっているじゃないか。本当にとけてしまったかのように、跡形もなく。
はて、あれは見間違いだったのか。それともお化けの仕業か。どっちにしても気味が悪くてね。そそくさとその場を後にしたよ。
 その日の夜中のことだった。あの指はいったい何だったのだろうかと考えていたら寝付けなくてね。それでもなんとかうとうとしてきたところだった。芝居だったらきっと、ゴーンと鐘の音でも聞こえていただろう。いや、実際聞こえた気がしたよ。怪異の前触れの、あの凄い鐘の音が。辺りの雰囲気がまるで変わってしまってね。思わず飛び起きたよ。
枕元に女がいたんだ。和服姿のね。
 辺りは真っ暗だっていうのに、その女の姿ははっきり見えたんだ。闇にとけこんでしまいそうな黒髪の様子も、光を放っているかのように白い肌も。たぶん本当に放っていたんだろう、月明かりのような、静かな光を。
 女はすうっと座ったんだ。そのとき、女の左手の小指がないことに気がついたんだ。ああ、あの小指はこの女のものだったのか、なんて、妙に冷静に思ったよ。それと同時にね、この女はあの桜なんじゃないかと考えたんだ。
 室町時代の物語なんだがね、「かざしの姫君」って話を知っているか? かざしの姫君という菊を愛する姫君が、菊の散るのを嘆きながらまどろんでいると、在原業平や光源氏も敵わないほどの美しい男が現れる。二人は恋に落ちるのだが、男は実は菊の精なんだ。
 その「かざしの姫君」のようなことが私の身におこったのだ。全く信じられないことだがね。菊の精が在原業平や光源氏だっていうなら、桜の精は衣通姫か小野小町か。いや、それだと大時代すぎるか。もう少し時代を進めて、そうだな、泉鏡花の小説に出てくるような、とにかく凄い美人だったよ。
 さて、その美人だがね。すうっと座って何をするかと思うと、懐から古めかしい剃刀を取り出したんだ。そして、その青く光る剃刀で、切り落としたのさ……右の手の小指を。
 血が、滴ると思ったよ。だがね、こぼれたのは桜の花びらだった。ぽとりと落ちた小指の上に、ひらり、ひらりと。
 次の瞬間、女の姿が掻き消えて、部屋一面に花びらが舞い散ったんだ。視界が、桜のあの上気したような色に覆われてね。一点だけ真っ白なのは、女が切り落とした指だった。いつの間にか指は二本になっていてね。たぶんあの桜の木から落ちてきた指だろう。
 花吹雪の中、私は魅せられたように二本の小指に手を伸ばした。闇の中の光のように、桜色の視界の中でひたすらに白いその指に。
 するとね、二本の小指が、するりと絡みついたんだ。私の、この小指に。それ以来ずっと、絡みついたままなんだ……」

 叔父が差し出した左手の小指に、僕は何も見つけることができなかった。だが叔父の目には見えているのだろう。心を奪われたかのようにじっと見つめるその先に、絡まりついた、二本の白い小指が。

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